心理師 juneberry’s blog

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言葉のむつかしさ

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職場で、可愛がってもらっている後輩のようで、からかわれているような状況を見ることがありますが、私には、あまりいい感じに取れない時があります。

(こういったことは若い男性同士に多いので、ちょっと、私には分かりにくい分野でもあります。) 

 

「おもしろ」さと「からかい」とが表裏一体になっているところが、とても危ういです。

そういった時には、後で聞いてみるのですが

「えっ、そうですか?気にしてませんでした(笑)」

と言われる時もありますが

「わざわざフォローをありがとうございます」

と言われる時もあります。

そういった時には、少なからず、何らかの思いはあるのかなと思っています。

他人とのやり取りの中には、周りの人はなかなか入りにくくて、私もためらいます。

でも、私の基準で「言わないといけないな」と思う時には、冗談っぽく

「その言い方はあかんなぁ」とか

「そんな言い方されたら、嫌ですって言いや(笑)」と

あくまでも冗談っぽく、言います。 

そこでやめる人は、私の真意が分かっているので、自分でも悪いことと言っているという自覚が、少しでもあると思います。

また次に同じ事をしている人は、何にも考えずにやっているんだな、と思います。

とにかく、言われている人が真剣に「やめて」と言わなければならない場面を、なるべく作りたくないという思いが、私には強いです。

私の母も、差別的なものの考え方をとても強く持っていて、小さい頃から、そういったことを聞かされていました。

私がそこに染まらなかったことは不思議でしたが、それは「自分も下に見られていたことをしっかりと感じていたから」かも知れないと思いました。 

ですので、いつの間にか正義感が芽生え、小学校での道徳の時間がすごく好きな珍しい子どもでした。

今は職場で、気にならない人にまったく気にならない部分に対しても、勝手に正義感を燃やしています。

ただ、どこに差別的なものがあるかを感じることは、人それぞれに「常識」が違ってくるので、それを本当に分かってもらうのは難しいとも思っています。

  

私の周りには「弱者のために…」と熱心な活動をされている方々もおられます。それはそれで、とても素晴らしいことだと思っています。

ただ、その言葉自体にも「やっぱり弱者と思っているだ」と感じてしまうことがあります。それはまったく悪気もなく、そして、その弱者と思われる方々のために支援しておられるので、問題はないのですが、敏感すぎる私には、引っかかってしまう言葉です。 

言葉だけでないですが、態度や接し方などの細かな部分までは、そういったことが常識として社会に受け入れられるまでは、過渡期として、ある程度の妥協は必要なのかなと考えています。これはもう一段階進んだ後の話かもしれませんね。

なんか、このテーマは書き出すと止まらなくなってしまいました。

もしかしたら、私の核となる部分だったのかも知れないですね。